のよのよ in Zの悲劇?!
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出身:福岡県。長年住んだ出雲から佐賀へ移住の白衣好き主婦。
趣味:同人活動ではハーロックに原点回帰。(他にナノセイバー・恐竜惑星・ジーンダイバー)、ばんえい競馬、鳥関係全般、(科学者用)白衣等々。海外に行った時は旅行ネタ多目。


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ベルリン旅行記(1)~ベルリンの壁1
【2012/05/02 00:40】 海外旅行
 街の随所に有る壁跡ラインの1つ。
壁跡ラインの1つ
 ベルリンの壁が存在したのは1961年8月13日から1989年11月9日。思えば1989年と言う年は昭和天皇は崩御するわ、東欧諸国の民主化運動にベルリンの壁崩壊、翌年のソ連崩壊と東西ドイツ統一に繋がる歴史的にも大変革の年でした。

 壁が崩壊して早や20年余り経ち誠に時の流れの早さを痛感してしまいます。

 私がベルリンの壁崩壊以降再び壁を意識したのは2009年にミュンヘンで本物を見た時。奇しくもその年が崩壊20年だったのは単なる偶然でしょうか。
 以後私の脳裏には「ブランデンブルク門」「ベルリンの壁」と言うキーワードがリフレインしていたので、今回ベルリンに行く事になったのは絶好のチャンスでしたね。(元々ミュンヘンの自然史博物館が期待外れだったし、今度ドイツに行くならフランクフルトかベルリンと思ってた)

 しかし有名な割には意外と知らない事が多いのもベルリンの壁。そこで自分を含めて壁が出来た経緯をおさらいをしたいと思います。

 尚、壁が出来た経緯や当時の状況等、より詳しく知りたい方は以下のサイトがお勧め。
ベルリンの壁資料館 

 ベルリンの壁は「東西ドイツの境界線に在った」「ベルリン全部を囲んでいた」「中にベルリン市民をを閉じ込めた」と思っている人が結構居ますが、これは全部間違いです。
 下の地図でお解かりの様にベルリンは寧ろ東側のポーランドに近い所に在り、しかも壁に囲まれたのは西ベルリンだけです。
東西ドイツ地図

東西ベルリン勢力図
 事の起こりは第二次大戦後。敗戦国だったドイツは東側をソ連、西側をアメリカ・イギリス・フランスの連合軍の支配下に置かれ分裂します。
 しかしヨーロッパの要所としても重要な位置に在るベルリンだけは、東をソ連、西を連合軍に二分されてしまいました。

 結果西ベルリンはソ連が支配する社会主義の海に浮ぶ、資本主義の孤島と化し、ソ連にとっては忌々しい存在でした。そんな訳でソ連は西ベルリンから連合軍を追い出して、自分の物にしようとあの手この手で嫌がらせを始めます。
 1948年にはベルリン封鎖…西ベルリンの陸路を全面閉鎖し、物資の輸送を絶って西ベルリン市民を干上がらせようとしますが、連合軍も己の威信に賭け旧テンペルホーフ空港を中心に、空輸大作戦(ベルリン大空輸)で市民を支える事で対抗し、米ソ間の関係は益々冷えていきました。

 旧テンペルホーフ空港前の「空の架け橋」記念碑。
空輸大作戦記念碑
 そうしている間にも資本主義の西ベルリンと、社会主義の東ベルリンとの間に格差が生じてきます。

 当時東ベルリンでは労働者に厳しい生産ノルマを架して圧制を強いていた為、それに絶えられなくなって西ベルリンに逃げる人が後を絶ちませんでした。西に行った方が生活が豊かだったし、飛行機で西独の別の街に行く事も自由に出来ましたからね。

 これでは労働力が減る一方だと判断した東独が、秘密裏に建設を始めたのがベルリンの壁。西ベルリンを閉じ込めた様に見えますが、実は東ベルリンから西に逃げない様にする為の、ソ連と東独の嫌がらせだったんですな。
 突如現れた壁のせいで家族や恋人や友は長きに渡って引き裂かれる事になり、壁を越えて西ベルリンに行こうとして192人が犠牲(射殺は136人)になりました。
 
 だって壁を越えようとしただけで射殺ですよ。まるで脱走兵ぢゃないですか。相手はちょっと前までは普通に行き来していた同じドイツ人なのに。

 言うなればDV夫に嫌気が指して妻が家を飛び出そうとしただけで、見張っていた御近所さんに撃ち殺される様なもんです。当時の東独はシュタージ(秘密警察)が横行し、家族や恋人や友の中にもスパイが居たと言うから、そんな状況で脱出を目論むのは至難の業でした。

 それでも数々の工夫と危険を冒して脱出出来た人は結構居たのですが。

 そして1989年。東欧各国で民主化運動が起こり(東欧革命)、先ずポーランドが、次にハンガリーがソ連の支配から脱却します。
 5月にハンガリーがオーストリアの国境を開放すると、そこから西独に亡命出来ると考えた東独民が、国境沿いの街ショプロンに集まって来ます。(旅行に制限が有った東独民も東欧なら何とか可能だった)
 この街は三方をオーストリアに囲まれている為、一旦オーストリアに逃げ込めば晴れて自由の身になれると言う訳です。
こうやって亡命した!!
 事態はハンガリーが東独との関係悪化を覚悟して、東独民の亡命を手助けする汎ヨーロッパ・ピクニック事件に発展。「何で逃がしたんだ?!」と逆ギレする東独政府に対し、ハンガリーは「逃げる様な国にしたあんたの方が悪い」と一蹴。ハンガリーカッコいい!!そこに痺れる憧れるぅVv

 最早危険を冒してベルリンの壁を越えなくても、ハンガリー経由なら自由に西独に逃げられる様になったのです。かくして壁は有名無実の存在に。壁建設と亡命者射殺を推進したホーネッカーは「壁は100年は安泰だ」と主張し、尚も固執しますが世の中の流れには勝てず、遂にはソ連にまで見捨てられ失脚。

 …遂に壁崩壊に繋がるので有ります。

 今では普通に観光地となっているブランデンブルク門も、繁華街のポツダム広場も壁の時代に翻弄されたのが嘘の様です。
 
 壁時代のポツダム広場。
かつてのポツダム広場
 これが今やこうですからね。
今のポツダム広場
 もっとも1930年頃のポツダム広場は大変栄えていたのに、第二次大戦で焼土と化したまま壁が出来たんで、崩壊後漸く元の栄華を取り戻しつつあると言った方が正しいのでしょう。

 しかし日本も北海道がソ連に取られていたら、津軽海峡の双方で同様の悲劇が起こっていたのかも。その点ではマッカーサーに感謝ですな。

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